「19-nineteen-」THE ALFEE 1988
「SWEET 19 BLUES」安室奈美恵 1996

T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
GUESTBOOK/BACKNUMBERS


今回は同じ「19才」を唄った唄の中から、1988年のTHE ALFEEのヒット「19-nineteen-」と1996年の安室奈美恵のヒット「SWEET 19 BLUES」について、その描かれる像の違いを男唄と女唄の違い、そして唄の作られた時代の違いという視点から書いてみたい。「19」という年。いろいろな意味で取り上げられやすい年齢といえよう。分岐点的な意味合いがその「19」という年齢にあるのも大きいのかも知れない。僕自身は、とりわけこの19という年齢においてなにかこう深く思い悩んだり、「やり場のない怒り」みたいなことは感じず、比較的のほほんと過ぎてしまった感があるのだが、今回取り上げる二曲の他にも、題名に「19」が出てこないまでも19才を唄った唄というのは多いわけで、一般的には何か考えるところの多い年齢なのだと思う。


「19-nineteen-」THE ALFEE

教師の中には、青臭いというか、熱血な人種が多いが、そのなかでも、言うことは熱血でうざったいんだけれども、つい許してやりたくなるタイプの教師と、単にうざったいだけの教師のふたつに分かれるような気がする。それは、音楽の世界にも見られることなんじゃないかなあと、アルフィーを聴く度に思う。むろん、アルフィーは前者のタイプの教師と重なる。言っていることは、(この唄のようにメッセージ色が強いと)説教臭かったりするのだが、聴いていてつい受け入れたくなる。その受け入れることになってしまう要因が、彼ら独特のハーモニーであったり、ギターを前面に押し出したサウンドだったりするのかも知れない。そうした、受け入れる要因、武器のあるアーティストは、熱血教師でもやっぱり強い。浜田省吾なんかも、そういうアーティストの一人としてあげることが出来るだろう。そう考えると、最近の唄に蔓延している説教臭さは、嫌いである。なぜなら、唄っている本人達そのものに「説教」の下敷きとなる要素が見えてきてしまうのである。本来、説教を受けている姿が似合うであろう人間に説教臭い唄を唄われる、これはちょっと頂けない。唄っている本人が「青臭い」のではなく「青い」のである。その「青さ」が説教の中でありありとわかる、これでは聴いてて嫌気がさしてしまう。

さて、この「19-nineteen-」はアルフィーの1988年のヒット曲。アルフィーはよく聴くアーティストの一つだが、なかでもアルフィーの好きな点はアコースティックギターの生かし方である。この唄でも、サウンドはハードながら、非常に上手にアコースティックギターをフィーチュアさせている点が気に入っている。

この曲のキーワードとなるのは

EVERYBODY'S GOT A PAIN 孤独な夜のTEENAGER
EVERYBODY'S GOT A PAIN もう一度何かを信じたい
YOU ARE JUST 19 乗り遅れるな

というサビの一節であろう。極めてアルフィー(高見沢)らしい、直球勝負の詞である。困惑と怒りに満ちた18までの日々から、まだ間に合う、立ち上がれというエールとも思える。唄の中には実体としては明確には出てこないが、唄われている少年の姿というのはいかにもナイーヴで、危なげで、鋭いものだと感じる。これは、男の人から見た、自分の実体験をも重ね合わせた上で出来てくる「ティーンエイジャー」の像であると思う。「体制」か「反体制」かと問われれば間違いなく「反体制」と答え、「処世術」という言葉からははるかに縁遠い姿である。いつか読んだ本に「青春とは、とても鋭い刃を、体のまわりで目に見えない速さで振り回しながら歩いている。その刃は、知らぬうちに人を傷つけ、そして自分も傷ついている。」というのがあったが、まさにその姿そのものであると言えよう。こうした「少年」の描写は、古くから長淵剛や尾崎豊などによってなされてきた、いってみればステロタイプ的なものといえる。少年を描いた唄は、黒夢の「少年」など、1990年代、最近に至るまでいろいろと作られ、唄われてきているが、このステロタイプ的な像から大幅に出ることはない。表現方法や使われてくるワードが時代を彷彿とさせたり、このアルフィーの唄のようにティーンエイジャーを励ます形になるものが少なくなったりする他は、基本にある「少年」の像は同じであると思う。


「SWEET 19 BLUES」安室奈美恵 1996

この「SWEET 19 BLUES」は前出の「19-nineteen-」とは一変して、「19才が19才の唄を唄う」というコンセプトである。「19-nineteen-」を聴いたあとにこの曲を聴くと、うーんとうなってしまう。この2曲の間の、12年という年月がそうさせたのか、まったくかみ合っていないのである。しかし、このかみ合わなさは、現在の実社会にも見られるようなものだと思う。つまり、ワカモノを教え、導く立場にある人達はみな「19-nineteen-」の価値観で引っ張ろうとし、ワカモノ側は「SWEET 19 BLUES」的な価値観で動いている。そう考えると、なにもよくなりゃしないのも頷ける話である。

この唄の中のキーワードはいくつかあるが、その中でも目をひくのが

「ただ過ぎていくよで きっと身についていくもの」

「熱い気持ち心に koolな態度はプロテクションに」

のふたつの詞である。これを読めばわかるが、先に出した「19-nineteen-」の「反体制」さは影を潜め、「体制」の中でどのように自分を出していくのか、つまりは「うまく生きてゆくこと=処世術」みたいな方向性が見られる。はっきり言って、「19-nineteen-」で語られる19才よりもよくも悪くもかなり大人である。その大人さというのは、これが「少年」ではなく「少女」の唄だということも大いに関係あるだろう。これまでのポップスでも、「少女」の唄は「少年」の唄よりもその内容が大人びているということは、1980年代半ばの中森明菜、堀ちえみラインの唄と、近藤真彦や田原俊彦の唄を比べること、あるいはバンドブームの頃のBAKUなど少年系の唄と、プリンセスプリンセスなどを比較すればわかることである。

ここまで書いてしまうと、12年という歳月は19才をクレヴァーにした、という結論になってしまいそうだが、そうではない。この二曲を見る限り、「クレヴァーなふりをするのがうまくなった」だけだと思う。なぜなら、この「SWEET 19 BLUES」、この唄を構成する歌詞は、一節ごとで半ば独立してしまって、何の脈絡もないような感じがするのである。それは、「処世術」や格好良さのTIPSだけを集めているに過ぎないと言うことだ。「流れ流されているだけではなくて、いろいろ考えている」のは伝わってくるが、同時に「結局流される」という結末も見えてきてしまうのである。

つまりは時代を映した唄、ではあると思う。しかしそれは、これから何十年、唄い継がれていく類のものではない。これを書いた小室哲哉という人は、もう中年になろうかという年の人である。しかし、こういう特定の年代、時代を映した唄は、そのムーヴメントからは若干はずれた人が書くと、よりその年代時代の味が明確に出るのではないかと思う。ティーンの唄を、ティーンが書く、それは一見表現として有効に見えるが(もちろん有効な面もある)、客観性や、幅広く伝わるという点では少しおぼつかない気もする。小室哲哉自体が、現在のワカモノ文化に(プロデューサーの役割を担いながら)どう考えているのかはわからないが、こういう形で多くの人に指示されるヒット曲に仕立て上げられるその才能は、やはり認めざるを得ない、と思う。


ぶんせきは
KENTARO