「Dragon Ashについて」 T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
〜「教祖」にしてはいけない〜
GUESTBOOK/BACKNUMBERS
「ワカモノの教祖」なるコトバは、おおよそ当のワカモノの間には関係のないメディア媒体、つまりはオバサンやオヤジ向きの週刊誌やワイドショー等で多用されることが多い。かつて教祖といわれたユーミンや尾崎、Xなどをみても、マスコミは「教祖、教祖」と騒いではいるものの、「@@@はオレ達の教祖だ!!」などと臆面もなく騒いでいる奴は本当に少数なのではないかと思う。今回の宇多田騒動にしても、「天才」だといわれるそのソングライティング能力と歌唱力、それにアメリカ育ち、おまけに藤圭子というオプションまで加わって「教祖」だと騒ぎ立てられているが、その人気の本質は別にテレビにでてこないフツーの女の子であるカリスマ性から起因するものではなく、単に海外のちょっと格好良さそっぽいものを日本語として料理しハヤリモノに仕立てる手腕のうまさと、折からのティーンエイジャー・シンガーの一種ブーム的なもの、それに彼女をとりまく環境の話題性が豊かだったことの全ての要因がプラスに作用したからに過ぎない。つまりは実際彼女は「教祖」でも「カリスマ」でもなく、ちょっと格好良さそっぽいから聴く人が大勢いる、というだけのことなのだ。別に天才ではない。
しかし前出の宇多田の例は、いくら「カリスマ」といわれようが、本人に実際の影響はほとんどないと言っていいだろう。彼女の唄には「格好良さそっぽい」要素しかないのであって、世間様がなんて言おうが、これからもそうした「格好良さそっぽいハヤリモノ」のコンピレーションを繰り返していけばいいだけのハナシだからだ。そうすればポピュラリティは保てる。ところが困ってしまうのは、本当に自分(達)にしかない、既存のものでないオリジナルなものを追及しつつ人気がでてしまって、「カリスマ」だの「教祖」だのの冠をつけられてしまう人々である。一昔前なら、それでもよかった。カリスマ・教祖感は聴くものも、そして演じるものも酔うことが出来た。そういう人たちに限って歌詞内容が「黙ってオレについてこい」的なものであって、アーティストの方向性はそのままファンの方向性でもあった。ところが今はそうではない。多くのアーティストの唄からあからさまな社会性が消え、代わりに一昔前までには目にすることもほとんどなかったような多種多様なジャンルの音楽の影響がつぶさに見て取れるようになった。かくして、アーティスト側の世界の根幹として「人は人、オレはオレ」的なものが広がっていくようになったのである。それを旧態依然とした「教祖・カリスマ」というコトバで語られてしまうと、一般認知として「黙ってオレについてこい」的なものとなってしまうのである。これはここの音楽活動において、とても痛いことであると思う。本当のリスナーのニーズというものがみえにくくなってしまうし、何しろ「教祖」「カリスマ」という色眼鏡で見られるということは、オリジナルな「個」の音楽を目指すアーティストにとっていい影響などありはしないからだ。
前置きが長くなったが、なぜこんな事を書くのかというと、「教祖化」の危惧をこのDragon Ashに感じているに他ならないからだ。最初に彼らの音楽を聴いたのは昨年スマッシュ・ヒットである「陽はのぼりまたくりかえす」だった。様々な音楽の要素をふんだんに取り入れた懐の深さと、とてもメロディアスで、ラップっぽい要素にしても、ここのところとってつけたようにそれを使っているものが多い中で非常にメリハリの利いたバシッとはまった使い方をしていて効果的なところがとても気に入った。他の女性ヴォーカルものが歌詞内容に「〜よね」を多用するのとは対照的に、歌詞を聞き込んでいって全体に流れる「人は人、オレはオレ」的なものにも非常に好感を持った。その後出したアルバム「Buzz Songs」は見事にヒットして、いろいろなメディアは本格的なブレイクは間近、と騒ぎ立てた。このアルバムも、一聴して新しさを感じた。旧来の「ロックンロール」から影響を受けた人々の時代はほんとうに終わった、とさえ思った。彼らの曲に根っこに流れるものは、曲の端々にスマパン(Smashing Pumpkins)の影響が見えるように、パンクやオルタナのドライブ・歪み、そしてそれとターンテーブルの多用の融合がとても上手くいっていて面白い。そのサウンドの勢いのみならず、メロディーラインも実に繊細かつ美しい。使っている全ての要素が「借り物」的なものではなく、彼らの中で完成されたものをミックスしている、それがこのバランスの良さの源だと思う。
そして今週、そのDragon Ashが本格的ブレイクの兆しを見せた。シングル「Let yourself go,Let myself go」がオリコンの初動7位と、今までなかったメディア露出を可能にするトップ10入りを果たしたのである。この先、どのくらいセールスが伸びるか、というのには確信を持てないところもある。こうした様々な音楽の影響の見えるアーティストというのは、一般的に日本のマーケットではあまり売れない。GREAT3が日本よりむしろ海外で人気が高いことからみても分かる。しかし、一方で、昨年の一連のR&Bテイストを持った女性ヴォーカルのブレイク、そして椎名”キワモノ”林檎といったものまでが下手をすればミリオン以上のセールスをたたき出す現象から、だんだんと今まで売れなかったジャンル、スタイルのアーティストを受け入れる土壌が日本のマーケットにも出来ているのではないかとも思う。しかし、様々な音楽メディアの言うとおり、このDragon Ashが今年今までになかった大きなセールスをあげてチャートを席巻するようになったら、ということを考えると、その音楽スタイルがアグレッシヴであるが故に、「教祖化」の危惧が頭をもたげて来るのである。その心配をさらに強くしてくれるのは、ヴォーカル及びソングライティングの降谷建志の経歴である。ファンの人はカンケーないと言うだろうし、僕自身、こうして曲を聴いてもその関係性は皆無と言い切ってしまえるのだが、この経歴があの尾崎”教祖”豊と非常に似ているのである(退学した高校も青学の付属と一緒)。これを下世話な人々がほっておくはずもない。教祖に仕立て上げられる準備が出来上がっているようなものである。「人は人、オレはオレ」的なものをいくら貫いたとしても、色眼鏡で見られることは、ファンにとっても当のアーティストにとっても同じように決してプラスにはならないと思う。
というわけで、今年の教祖・カリスマの役回りは宇多田にまかせておこう。アルバムが300万枚売れようが400万枚売れようが1000万枚売れようが結構結構。それでこの前途有望なワカモノ4人が、なんの心配もなく自分たちの音楽をやっていけるのなら、それでよし。
ぶんせきは
KENTARO