「妹」
〜受容の変容〜
かぐや姫

T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
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こうせつを最初に目にしたとき、「こいつ、女??」と思った人ってどのくらいいるのかなあ。あ、オレですか??もちろん思いました。そう思ったからそう書いてるんですけど、結構多くないのかなあ。友達のお母さんとかに、一人くらいいませんでした??南こうせつに似たお母さん。彼、一時期あのちりちり頭の後ろ髪のあたりを少し伸ばしていて、某新興宗教の教祖様が使ってるようなゴムで縛ってたことがあるんですけど、あれはおばさんちっくでしたねえ。あんな格好でさだまさしとミュージック・フェアーなんかに出たなら、「おばさんと豆電球」もしくは「おばさんとラッキョ」みたいになりますからね。生活臭ありありですね。それで「三畳一間の小さな下宿」ですからね(ちなみに僕の使っているIMはATOKですが、「六畳」と「四畳半」は一発で出ますが「さんじょう」は「参上」もしくは「三条」/日本も豊かになりました)。しかし、70年代、80年代前半のシンガーソングライターってば、どうしてああも風貌がインパクト強い人が多いのかしら。・・・と、そんなことを書くためにこの歌を取り上げたんじゃあないんです。

の歌、大概の方がご存知だと思います。「いもおとよぉ〜、ふすま一枚、隔てて いまぁ〜」という出だしではじまる、あれです。知らない方のためにちょっとだけご説明いたしますと、この歌は、父親と母親を早くに亡くした兄妹の歌なんですが、妹が嫁ぐときの兄貴の心境を歌っているものです。嫁ぐ前夜、兄が妹がふすま一枚隔てて向こうで寝ている、その寝息を聞きながら、感慨に耽るという歌です。兄は出ていく妹に、嫁いでいく前に「あの」味噌汁の作り方を書いてゆけ、と呼びかけます。しかも、妹のダンナとなろうという人が、兄の友人だったりして、「たまには三人で、酒でも飲もうや」なんていう泣かせるフレーズまで出てきます。最後の最後には「どうしてもどうしてもダメだったら、帰っておいで、妹よ」と、本音が出ます。

には妹がいますが、到底この心情は理解できない。妹が嫁ぐ、これに、多少の感慨こそあれ、ここまで感傷的にはなれないもんです。両親が早いうちになくなったという点でもう、この兄妹の関係と、一般の兄妹の関係にはかなりずれがあるので、当然といえば当然のことだと思いますが。この歌を初めて聴いたとき、さしてかわいげのないうちの妹を見ながら、「まさか、こんなことを思う日がくるのだろうか・・・」と恐怖におののいていたことを思い出します。ま、実際がこうでないからこそ、逆にこういった現実離れした感慨というものが受けるというのが、人間の面白いところであります。そう、「巨人の星」が受けるように。ただ、ここ二十年くらいで、日本のポップスの歌詞は、こういった「非現実の要素」がめっきり減りました。いわゆる「クサい」歌は今でも数多くありますが、あまり画面として現実的に人間の姿が映るような作品(「乾杯」「贈る言葉」、新しいのでは「one more time one more chance」「ロード」)はかなり減ってきたといえましょう。「感動は享受したいけど、身近で人が死んだり、傷ついたりする様が想像できるのはイヤ」という志向がさらにさらに強くなってきたと思います。特に再三このエッセイでも取り上げる、SPEEDの曲なんかはその典型。まんまきれいごと、というような歌詞で、生々しく傷ついた様、のようなものは見えてきません。

幸や苦境の歌は、昔はその苦しい様、辛い様を安易に想像出来たがために、自分の辛いことに照らし合わせたり、また辛いときそのものに聴いて自分の力にしていく、てな用法が主流でしたが、最近のまんまきれいごとの歌は、その聴かれ方もかなり違うのかもしれない。もちろん、その歌の中にも辛い思いをしている人が出てくるが、それは感情移入の対象ではなくて、鑑賞の対象ではないのかということ。正から負の値を引くと、正の値は増大するように、ソフティケートされた「不幸」は聴き手の幸せを確認し、それを増大させる効き目があるのではないか、と思うのです。日テレで毎夏まるまる一日やっている感動押し売り番組も、キホンは同じ、苦しかったり辛い思いをしている人をブラウン管の向こうで眺めることによって、自らの幸せを確認できるから、高視聴率が取れるのでしょう。まさに「対岸の火事」的現象といえます。

「妹」この歌は名曲としていまでも愛好する人が多いと思います。しかし、このようによく考えると非現実的な歌が、名曲として某国営放送が実施したアンケートで選ばれたように、21世紀まで残っていけるかというとはなはだ疑問だなあ、と思います。確かに、時を超えた名曲はたくさんあるし、またこの「妹」に「何だかわからないけど感動してしまったなあ」感があることは否めないけれど、この歌、日本のポップスが成熟してきた70年代以降のヒット曲の中では、実はいちばん早く風化し、化石となってしまう歌なのではないかなあ、などと考えてしまったのです。それがいいとか悪いとかではなくて、この歌が好きで「わかるわかる」と思える人と、「陰気な、しかもよくわかんない歌」と一蹴してしまう人と、両方いるわけで、音楽の受容のされかたが変わっているんだなあということ、そしてもちろん人によってもえらく違うのだなあということを、この曲を通して実感してしまうんですね。



ぶんせきは
KENTARO