「家庭教師」 T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
岡村靖幸 1990
GUESTBOOK/BACKNUMBERS
「家庭教師のトライ」のCMを見て、この唄のことを思い出した。ああいうCMを本気でつくるんなら、CMソングは是非この曲にしてもらわなくっちゃ、なんて邪な事さえ考えてしまった。ってそれじゃ「トライ」に家庭教師を頼む人は誰もいなくなっちゃうな。親がダメ出しそうだもんな。ああいう、「家庭教師」という言葉の持つ淫靡な部分をああ臆面もなく「本業」のCMに使ってくるなんて、新鮮というよりちょっと興ざめだったけど。
80年代の末期から90年代の初頭を駆け抜けたという表現がしっくりくる”個性派”アーティスト、それが岡村靖幸だった。セクシーというよりは「濃ゆい」ヴォイスとアコギのバッキングが妙に印象的なサウンドに、当時飛びついた人も多かった。この曲が収録されているアルバム「家庭教師」は彼の代表作ともいえるものだけれど、とにかく濃密かつごちゃごちゃとした音が詰まっていて、そこに非現実的かも知れないけどやっぱり思い当たる節があっていやらしくて青臭くてちょっとセンチな歌詞がのっかっていて、感じ過ぎちゃう年代のリスナーにはさぞかしクリーンヒットだったんだと思う。クラスに何人か、靖幸好きがいて、彼女たちはみな何とも不思議な、アブなそうな、細ーい綱のようなバランスの上で落ちそうになったり、持ち直したり、そんな女の子だった。
この頃っていうのは、「しょうがない男」を男が唄うというスタイルがウケはじめていたときで、大江千里とかKANとか、バンドブームからの反動か、イヤにこざっぱりとした風貌のシンガー達が「弱い僕」を唄っていた。もちろん彼らはよく聴き込めば「強い僕」「強い男」も唄ってはいるのだが、一過性の爆発として彼らの群がった人々にとってみれば、彼らはどちらかというと「かっこいい」より「カワイー」の対象であった。そんな中、靖幸は濃かった。「しょうがない僕」を唄うときも、ハキハキさわやか路線を貫いていた他のシンガーとは一線を画して、この「家庭教師」ではヴォイスパーカッションで、そして曲中のセリフであえぎ声さえ大盤振舞してしまうのである。「しょうがない僕」の狂気。一聴しただけだと、まるで、当時の女子中高生のリピドーの対象であり、オナペットかと思ってしまうほどである。もちろん、オナペットばっかりやっていたのでは靖幸も撃ち尽くしてしまう。「青さ」を表現する靖幸の声も、「家庭教師」の靖幸の声とは確実に違って聞こえた。一転して青春系情熱属の「あの娘僕がロングシュート決めたらどんな顔するだろう」、そしてこれぞしょうがない、男の子の強がりや弱っちい様が見えかくれする「カルアミルク」など、靖幸の声でなければさぞかし無味乾燥になってしまうだろう名曲である。声が裏返り、シャウトし、あえぐ、聞き取りにくい歌詞の中でも、「青さ」のキーワードは確実に伝わってくるのである。青すぎて、20も半ばにさしかかろうとする筆者が改めて聴くには、いささか心が不安定になってしまうほどだ。
しかし靖幸は駆け抜けてしまった。「青さ」が「母性」を引き起こし、やっぱり彼も「カワイー」の対象になってしまったのかも知れない。靖幸本人の体重の増加との因果関係については諸説あるが、ここではあえて触れないでおく。「オナペット」を卒業した女の子たちは、「青さ」を回顧して唄にした靖幸自身と同じ立ち位置に移動してしまったのかも知れない。その後靖幸が川本真琴という、痩せっぽっちの女の子を引っ提げて久しぶりに姿を現した時には、男の僕にはさほど魅力に感じられなかった。「淫靡」「危うさ」「青さ」、毒気を抜かれたこれらの要素だけが、その痩せた喉から発せられているのを聞き取れるのみで、まるで脂を抜かれた旬の秋刀魚を喰わされているような気がしたのだ。
靖幸にハマった世代の人たちももう20台半ば。彼女たちのなかには、いまだにCDケースの隅っこに、10年前の「青さ」を「危うさ」を、そしてリピドーさえも捨てきれずにしまい込んでいる人も、少なからずいるはずである。それを引っぱり出して赤面してみるのも、日常に疲れたときにはちょっといいんじゃないかな、と思う。
ぶんせきは
KENTARO