「最後のKiss」 T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
〜「色香」の欠如のなせるワザ〜
Kiroro 1999
GUESTBOOK/BACKNUMBERS
女性誌にバッシングされたり、極端に女性から嫌われるタレント・ミュージシャンというのがいる。人間というのはある意味嫉妬の塊だから、いろんな事をうらやまれてその結果評判を落としてしまうと言うこともあるのだが、こういったいわゆる「女の人から嫌われてしまう人」というのは「極端に色香を振りまいて本人もそれに乗って」しまっていたり(川島某)、「ミステリアス」過ぎてしまったり(裕木某、葉月某)することが多いと思う。こういう人たちというのは、往々にして外見と中身のイメージが結構似ていたりする。ギャップを楽しむのが大好きな一般大衆は、「ミステリアス」な人が以外にアツい人だったり、「色香を振りまく」人が意外にべらんめえアネゴ気質だったりするのをとりわけ好む。「ミステリアス」な外見のまま発言もミステリアス一辺倒だったりすると、すぐにむかつかれる対象となってしまう。何事も一直線に突っ走るというのは、反感を買うことが多いのかも知れない。
そうなってくると、平均値を遥かに超えるルックスを持つ人が多い女性ミュージシャンの世界において、一番危険なラインというのは実は「女の子女の子した唄」を唄ってしまう事なのかも知れないと思う。ここで言う「女の子女の子」というのは、あくまで男の中で構築された、いわゆる健気で、それでいて芯は強く、でも結構涙なんか見せちゃったりする「女らしさ」像ということである。平均値を遥かに超えたルックスでこんな唄を唄われたら、それこそ女の子道一辺倒と受け取られてしまう可能性大。このメカニズムが、80年代後半から90年代初めにかけて起こった、ナチュラル系の女性アーティストのブーム(谷村有美、平松愛理、種ともこ、永井真理子など)が長続きしなかった理由にもなってくるのかも知れない。今、女性アーティストが台頭しているが、メガヒットを飛ばすアーティストというのはこの辺の調整が非常に上手い。基本ラインである「女の子女の子」をベースに、それにちょっと「不思議ちゃん」とか脱力系、あるいは一時の相川七瀬のようなワル系エッセンスといった要素をちょうどいい配分で付加しているのである。
実は、この「最後のKiss」を聴いたとき、谷村有美的な世界だなあと錯覚した。実に女の子女の子である。思えば谷村さんもあんまり市井の女の子にはウケなそうであった。あのルックスで健気な男の唄など唄われて、しかも彼氏がそれを熱心に聴いていたりしたら、いつか彼氏を谷村有美に寝取られてしまうんではないかという被害妄想に陥らんばかりの女の子ぶりである。平松愛理は、「幸せになりたい」等身大の女の唄を掲げて女性にも支持されかけたが、当の本人が幸せになった途端アッという間に人々は離れていった。
しかしKiroroは違った。「バスクリン」のCMでよしゃあいいのに惜しげもなくセミ裸体を披露しているが、恐ろしいほどの色気のなさである。これがいまなお彼女たちがメジャー・シーンにとどまることの出来る理由といっても過言ではない。どんなに女の子女の子しようが、これでは彼氏を寝取られることもなさそうである。だからこそ、健気な、ステレオタイプ的な女の子女の子の歌詞も、安心して聴いてられるってものであるし、妙なやっかみがない分、素直に耳に入ってくるのではないだろうか。他にも女の内面なる、等身大な姿を唄うアーティストはいるが、上手くいっているのはKiroroのような「ブス可愛らしい」系か、古内東子のようなメチャエキセントリックな、イッてしまったルックスの人たちだけである。しかし、そういう人たちと比べると、Kiroroはもっとピュアで、湿気が少なくて好感が持てる。「最後のKiss」のサビ前に入る「Whooo!」というかけ声など、市井の「ブス可愛らしい」女子がカラオケボックス店内にて行っているものとほとんど変わらないではないか。
等身大といいつつも、結局は説教ソング、または幸せ見せびらかしソングになっているのが多い中で、群を抜いて肩の力が抜けている。女にとっては安心して見ていられ、男にとってはつい許してやりたくなるKiroroには、1日でも早くメジャー・シーンにとどまっていて欲しいものだと思う。
ぶんせきは
KENTARO