album「無罪モラトリアム」(LIGHT GAUGE)
椎名林檎 1999

T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
GUESTBOOK/BACKNUMBERS


出たばかりの椎名林檎のアルバム。「ここでキスして」がオリコン初動11位、その後も粘り強く推移を続けて、TOP10入りも果たすヒットとなった今注目のアーティストの一人である。このシングルについては先日エッセイで取り上げたが、その後カップリング曲などもじっくり聞いてみて、非常にアルバムが気になり、今回ここでレビューを書いてみようと思う。

聴いた第一の感想として、「ここでキスして」で彼女を知り、飛びついた多くのリスナー達がこれについていけるのだろうかと思った。「ここでキスして」に展開されているキャッチーなメロディーラインの裏側に隠されていた数多い音楽の引き出しがここにあらわになったという感じだ。ノイズからトラディショナルな日本の歌謡曲まで、様々な音楽の要素をミックスして独自の世界が繰り広げられてはいるが、音としては限りなくマニアックであり、通して聴くとシングルとしてリリースされている「ここでキスして」と「歌舞伎町の女王」の二曲のキャッチーさが改めて際だつ。M1の「正しい街」にキャッチーさのかけらが見られるが、これはアルバムとしての「つかみ」を意識したものだろうと思う。このアルバムを聴いて、どのくらいの人が今後も彼女を支持していくのか。「無罪モラトリアム」には椎名林檎のソングライティング・歌唱の様々な面が刻みつけられていると思うので、興味大である。この世界が比較的多くの人々に受け入れられるようになると、日本の音楽シーンもまた一つ大きく動くのではないかと思う。

以前「ここでキスして」を取り上げた際に、彼女の作詞力の稚拙さについてすこし触れたと思うが、このアルバムを聴いてその見方を若干修正せざるを得ない思いでいる。おそらくは「シングル曲」を意識してメロディーライン優先で出来た楽曲が「ここでキスして」であると思うのだが、作詞に見られる稚拙さにもそうした事情が影響しているのかも知れない。このアルバムに収録されている曲、とりわけM1の「正しい街」、M3の「丸の内サディスティック」やM5「茜さす 帰路照らされど・・・」、そしてM7の「積み木遊び」に見られる彼女の言語感覚は今の日本のミュージシャンにはなかなかない、希有なものである。ここまでうまく「ひらがなで遊ぶ・日本語で遊ぶ」事が出来るミュージシャンは、筆者の知る限り奥田民生以外にこれまで見られなかった。音の方は、様々な種類の楽器が入れ替わり立ち替わりフィーチュアされていて、楽器の音好きな筆者にとっては聴いていて非常に手応えを感じた。

「きんきょうほうこく」でも書いたが、彼女の音楽には「ファーイースト東京」を感じる。それはM3の「丸の内サディスティック」であからさまにその様子は感じとれるのだが、それともう一つアルバムを聴いての大きな感想があった。それは、このアルバムを通して、椎名林檎の唄の中にきれいごとでは片づかない「女」の姿を見ることが出来るということだ。それは後にアップする予定でいるエッセイの中でも触れることだが、とかく女として何かをアジテートするという手段として音楽を選ぶ女性アーティストの中には、ただシャウトしたり、ただ刺激的な音を使うだけといったものが多く、そういうものは一時期脚光を浴びるものの、例外なく波が引くのも早かったと思う。椎名林檎は違うと思う。卓越した言語感覚からくり出される一つ一つの言葉は容赦なく聴くものの心へと突き刺さっては来るが、同時に「女」としてのかわいらしさや健気さといったものも表すことが出来ているのである。そうした内面の部分を忠実に伝えるのにはその詞だけでなく、極めて日本人的な(西洋化されていない)彼女の声であり、歌唱も大きな役割を果たしていると思う。

僕にとってはそうした生身の「人間」そして「女」の姿を感じることの出来る椎名林檎の唄は、昨今世を席巻しているきれいごとや人間の表面だけを切り取ったような、角の丸くなった音楽が主流になっている中で、非常に新鮮で、かつ強烈なカウンターパンチになり得ると思う。しかし、強烈な故に、このアルバムはそうした主流音楽に慣れきったリスナー達が「たまにはこういうものも」といって手を出すにはちょっと刺激が強すぎるかな、とも思う。あえて直球を投げてきた椎名林檎のモチベーションは買いたいと思うが、おそらくビッグセールスを記録するであろうこのアルバムを聴いたリスナーが、その次のアクションとして椎名林檎の音楽を支持するのかしないのか、これが大きなポイントであろう。録音技術や、演奏に粗さが目立つが、しかし骨のあるアルバムを聴いた。

〜追記〜
ジャケットのポラ写真のアイディアは素敵。



ぶんせきは
KENTARO