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Kiroro 「未来へ」

Kiroroの二人は、天童よしみに似ているとか、僕はいろいろとひどいことを書いてきたけれども、まぁ似ているんだからしょうがない。そんなことよりも、彼女たちの2枚目のシングル「未来へ」を聴いた感想を書いてみようと思う。

「長い間」が大ヒットしたとき、その売れ方から、「あ、こりゃ一発屋まちがいないなぁ」と思わず思ってしまった。そう、よくある「一生のうちで1曲書ける書けないかの名曲を、たまたま一番最初に世に出してしまった」というパターンである。まあ、「長い間」のアレンジといい、メロディーラインといい、かなりあざといものであったので、まあ、ル・クプルの二の舞だなあと思ったのです。

ところが今回の「未来」。全くあざとくない、綺麗なメロディーの曲を書いてきました。「切々と」歌い上げるのに非常にマッチした、良くも悪くもカラオケ向きなのだけど、それだけではない、全ての年齢層に受け入れられるような間口の広さがあると思う。Aメロがちょっと「オリビアを聴きながら」に似ているのが少し気がかりだが、サビの「ほら」というのを、メロディーラインの細工で「ほうら」と聴かせるのも良いアクセントになっているし。総合的に見て前作を凌ぐ出来になっていると思う。

お母さんのこと、そして自分の未来のことを女の子の立場から見るとこんな感じなんだろうなあと、特に偏差値の高いコンサバティブな層に受けそうな曲。「お母さん」ということで、ウルフルズの「かわいいひと」とセットでお母さんに歌ってあげるととてもいいんじゃないかなと思う。家族でカラオケに行ったときなんかに、お父さんやお母さんの前でも「照らいなく」歌うことが出来そうだし、この歌の向こう側には「ワカモノの姿」というよりは、「円満な」家庭とか家族めいたものさえ見えてきそうである。ちょっと見た目が「あみん」っぽいのは気がかりだが、今後の活躍がさらに楽しみだ。「長い間」そしてこの「未来」とこの次の世界をどう打ち出すかが、正念場だろう。

SPEED「Alive」

夏なのに、みんな弾けんばかりに若くて元気がいいのに、なんてこった。島袋は完全に「演歌がうまいガキ」的様相を示しているし、その辺の中学生(ポエム好き)が国語の授業中に思いつきそうな寒すぎるセリフまで装備してしまった。詞の内容も何だか一昔前のビーイングというか、やたら「愛」は生きづいてしまうし「永遠」なんてコトバも簡単に使ってしまう。あと、鳥肌ものは「〜よね」の多用。これを聴くごとに「叱られた犬のような目をして歌う」島袋の顔が思い浮かんで、何にもしていないのに何か悪いことをしている気分になってしまう。恥ずかしくてまともに聴くのはすでに拷問の域に入ってしまった。

あと、ジャケット。みんな口角上がりまくっちゃって、何か無理矢理アグレッシヴな自分を表現してしまってる、肩に力はいりまくっている就職活動中の学生みたいな表情をしているし、見ていて疲れるし、かわいそう。こんなに元気のいい、罪のないエネルギーが充満している4人なのに、何でこんなセミ歌謡曲みたいな気持ち悪い歌ばかり歌わせるのだろう。この夏、青い空、白い雲の下で聴けるような、元気の良い曲を期待していたのだが、もうだめなのだろうなあ。時間は流れる。今しかできない売り方を、あえてしないで守りに入っているような気がする。こんなことでは、B'zの牙城(連続初登場1位記録)を崩すことなど不可能と言わざるを得ない。これを打破するには、プロデューサーを変えるしかない。伊秩さんは、もうお役ゴメンでしょう。

この2曲を聴いててふと思ったこと。

この2組、沖縄から出た人たちである。その他にも、DA PUNP、知念理奈、Coccoなど、様々な「沖縄勢」が大手を振って活躍している。しかし、それってなんなんだろう、と思う。

日本のポップスにおいて、地域性というのはとうの昔に死んでいる、と僕は思う。にもかかわらず、このような「沖縄としてのアイデンティティをもたない音楽」が「沖縄勢」とひとくくりにされて売れていることに、少し心苦しい思いがある。それは、「日本のポップス」で括れない沖縄のミュージシャンのことを思うからである。彼らにとって、この一連の動きは良い材料であるはずがない、と思う。チャンプルーズ以来、独自の文化を(少々形を変えながらでも)辿り、「オキナワ・ミュージック」の存在を徐々に世に知らしめ、またBOOMが「島唄」をリリースすることにも、そうした「オキナワ・ミュージック」の輪が広がっていることが目に見えていた。しかし、そうした真の沖縄の音楽家たちにとって、音階などのテクニカルな要素はおろか、その内容に沖縄ならではという色の何もない、ただ沖縄出というだけの音楽が「沖縄勢」として世に氾濫してしまうということは、「オキナワ・ミュージック」の独自性を世に広げていくことの大きな障壁となり、日本の音楽界において(一般レベルで)「沖縄」というカテゴリーもまた既存の普遍的なポップスに吸収されてしまう恐れが大きいのではないかと思う。

ここのところの、いってみれば「エセ沖縄音楽」の氾濫は、本当の沖縄的な音楽の、せっかく一般に広がってきたムーヴメントを、世の動きから覆い隠してしまうに十分な、ある意味音楽の発展、裾野の開拓という点で残念な現象としか言いようがない。


ぶんせきは
KENTARO