「四季〜アトラクシオン」
〜季節感〜
大貫妙子 1999

T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
GUESTBOOK/BACKNUMBERS


唄の中での季節感というものには、実は様々な形のものがあると思う。日本的な情緒を中心に唄い、その中で季節感を表現していくというのは演歌にもよく見られる手法だけれども、そうした方法をニューミュージックといわれるジャンルで表現したのが叙情派と呼ばれるアーティスト達だと思う。彼らは今オッサンやオバサンになって、そのスタイルそのものが演歌に近くなっていることからも、ルーツが演歌であることが明確だと思う。ところがそのニューミュージックの流れのあとに、「日本を彷彿とさせるもの」とか「季節感」を歌い上げるアーティストの質というのが大きく変わってくるのではないかと思う。今までの演歌的な、なんとなくその唄われる風景の中にも「田舎の面倒くさい人間関係」や「涙もろいアニキ」など、ガイコクの空気を一杯に吸って育ったワカモノ達には解しにくい要素は陰を潜めていき、逆に日本的でありながら無国籍なヴォーカル・サウンドを持ちながら相対として「日本」とか「四季」を強く聴くものに感じさせるアーティストが目立ってきたのである。一時期のニューエイジミュージック・ワールドミュージックと呼ばれるもの(喜多郎など)もそのひとつだと思うし、以前取り上げたおおたか静流もそうだと思う。別に日本的なものや季節感を意識していない作品でも、どことなく日本人のココロを懐かしくしてくれ、なごませてくれる。サウンドの無機質さ、ヴォーカルの無国籍さ、それが逆にリスナーに「季節感」を訴えかけてしまっているのである。それは、先に挙げたそれまで行われてきた演歌的な手法とは全く一線を画するものだ。

そんななか、後者の「季節感」アーティストとしてあげておきたいのが大貫妙子である。この人も様々な音楽スタイルに手を出している人で、特に「季節感」とか「日本的なもの」を意識して曲を書いているわけではなさそうなのだが、特にアコースティックな楽器を使っている曲などでは、いわゆる「和モノ」志向の人々の心の琴線に触れてしまう雰囲気がどことなく漂ってくるアーティストである。この時期聴きたくなる「春の手紙(TBSドラマ「家裁の人」主題歌)」などにも、そうした日本的なモノが漂っている。あの歌を聴いて、聴くものが思い起こす風景は、アメリカでもヨーロッパでもない、紛れもなく日本の、もしかしたら自分の生まれ育った地の風景かも知れない。

今回取り上げている「四季」という唄は、そういう大貫妙子の「季節感」ここにきわまれり、といった感じの佳曲である。演歌的な発想から生まれる日本の風景、そこに「情け」の部分を織り込んでしまったりは間違ってもしない。この曲の詞は、単語の羅列に近い、ストーリーっぽいところはどこにもないのだが、一つ一つのコトバはとても研ぎ澄まされていて、耳に心地よい。大貫妙子の声も、そういう詞世界に非常によく合っている。ストリングスとナイロン弦のギター、そしてウッドベースのアコースティックでありながら温かさよりも「澄んだ」感じのするサウンドは、なにかというとすぐ日本的なもの、季節感に人の「体温」を求めてしまいがちな旧来の和モノソングとは一味も二味も違っている。

「人間味」「情け/人情」「日本」これらのワードは、今ヒットチャートを賑わしている唄達とは無縁の世界であり、演歌の衰退が目立ってきている今、徐々にこのような形での「和モノ」「季節感」の唄というものは人々に支持されなくなってきている(というか、時は流れ、そういうモノに共感する人々の数は減る一方なのである)。日本の美しさや季節感、そうしたものをどのように日本人のアーティストとして表現するか、そういう意識をもったアーティストがなかなか成功することが出来ないのは筆者も歯がゆく思っているのだが、そんななか、この大貫妙子の「四季」へのアプローチはとても上手くいっている。何より美しい唄である。「和モノ」を欲しているアナタ、ダマされたと思って御一聴あれ。「ななこなでしこ」CFソング、アルバム「アトラクシオン」収録。



ぶんせきは
KENTARO