「玉姫様」 T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
〜women in songs〜
戸川純 1983
GUESTBOOK/BACKNUMBERS
女の人と一緒に日常生活を共にしていたりすると、だんだん自分の中で思い描いていた「女」っていうものの幻想っていうか、まあこうあってほしいなんていう想像が崩れていく瞬間っていうのがある。ふつう、例えば理想の女性は?とか聞かれて、「やさしい」とか「思いやりがある」などいうのと同じくらいでてきそうなのが「清潔感」とか「細やかさ」といったもの。一般的な感覚としてオンナノコよりもオトコノコの方が汚そうだし、ずぼらそうだし。男の部屋がきれいだとすごく珍重されるけど、女の子の部屋は整然としていて当たり前みたいな、あんまり(オトコノコに比べて)誉めてもらえない。だけど、女の人も当然人間であるわけで、思いきり几帳面な人を除けばだいたいどっかで手は抜いているもの。そういう「どっか」をはじめて垣間みてしまったときは、男の筆者としてはやっぱり何かしら「見てはいけないものを見た」感じがする。
筆者は別に「女性はけがれている」思想の支持者でも何でもないのだが、男には男の(多分女の人から見れば)けがれているところがあるのと同じように、女の人には女の人にしかない、けがれている部分があるのだと思っている。この曲は、「けがれ」思想の原因の一つにもなっている女の人にしかない生理的現象に苦しむ(というかもの凄いのだとにかく)玉姫様の様子が、戸川純のエキセントリックというか、アナーキーな歌唱によって綴られているかなり変わった唄なのだが、知っている人もそう多くないが少なくもないだろう(分かってくれますか?このニュアンス)。まだ筆者が若かりし頃、この曲をはじめて聴いたときは、何とまあ恐ろしい世界があるもんだ、あるいはこんなに気の毒な様なのかと思うと半ば信じられないという、まるで自分のこととは別世界のことのような感じがした。半ば感心さえした思いだった。
ところが今になってこの曲を聴くと、その恐ろしい世界に半ば納得のようなものを覚える。赤黒いものが嵐のように渦巻いている、そんな世界。それまでの経験の中で垣間みてきた女の人にしかないけがれた部分、男が勝手に作り上げた幻想とは全く異なった女の姿を実にリアリティ豊かに描いているような気がした。ふつう、唄の中の男と女というのは、中島みゆきの「歌でしか言えない」のようなフレーズに象徴されるように、作り上げられた幻想の上に成り立っているものが多く、男の、そして女の動物的なけがれているさま、生身のさまは、普段何気なく万人が感じていながら誰にも言い出せない。
美輪明宏は遊郭で育った。そこにはそうした男の幻想の中の女の姿はなく、生身の女の姿があり、彼はそうしたバックボーンの影響から徹底した幻想の上の女性の美というものを自らの身体を持って追及しているのだという。彼の見た「生身の姿の女」。それがこの「玉姫様」の中にあるのかも知れない。
ぶんせきは
KENTARO