「クリスマス・イブ」
山下達郎 1983

T0P/ MUSIC ESSAY/KINKYO
GUESTBOOK/BACKNUMBERS


「クリスマス・イブ」はズルい。

「クリスマス・イヴ」と表記せず「クリスマス・イブ」と書いてあることに、その重みやその年輪をほのかに漂わせているところも、ズルい。辛島美登里のは「サイレント・イヴ」なのに。その時点でこの唄は「クリスマス・イブ」と同じ土俵に立っていない。

唄っているのが山下達郎というのもズルい。彼のその奇怪な容姿からは、シングル・ベル(死語)を鳴らす淋しさとかそういったものはまったく想起させられない。山下達郎の存在は、この唄において大きいようで、じつは大した物ではない。聴いているほうも、その歌詞の意味を変に深く考えつつ、本気で淋しい思いに浸ったりはしない。「きっと君は来ない〜」とうたっていても、「うーんそうなんだよなあ、今年も来ないんだよなあ、去年も来なかったたんだよなあ、っていうか、今まで”君”なんて来たためしは無かったんだよなあ」などと勝手にタメイキをつきつつブルーになる、この曲をそういった愉しみ方している人の数は、きっとイリオモテヤマネコの数よりも少ない。

詞の書き方もズルい。この唄は雨が夜更けすぎに雪へと変わってもきっと君は来ない唄であり、必ず今夜なら言えそうな気がするのにきっと君は来ない唄であるはずなのに、”君”を待っているこの男の主観というか、感情というかがまったく伝わってこないのである。当事者でありながら、ある種傍観者的であり、きっと君は来なかったとしても本当はどうでもいいんだもんね的な、待ち合わせで30分待ったらさっさと暖かい部屋に帰ってクリスマス特番見るのも悪くないね的なサメた空気すら伝わってくる。せっかく待ちぼうけ食らったんだから、ちょっとつぶやいてみるか、そのくらいライトな気分での独白に過ぎない。きっと君は来なかったからといって、自殺しちゃったり、オイオイ泣いてしまったり、そういうウェットな感情は出入り禁止となっている。きっとこの辺は計算ずくであろう。やはり、ズルい。

一番ズルいのは、毎年毎年季節が来るとこの曲を支持し、この曲を愉しんでいる多数のリスナーたちである。きっと君は来ない歌をみんなで愉しむ。それは、”君”がやってくる派の人にとっては、温かい部屋で凍てつく雪景色を見ているようなものだ。寒い中、歩いていく人の姿が見える。それを労しく思いながら暖かいコーヒーを飲む。自らのシアワセが増大するひとときである。自分のシアワセは、他人の不幸をおかずにすることで余計に実感でき、享受することができる。この唄のロングヒットの影には、そうした構造が少なからず寄与しているのではないかと思う。

聴く側がライトな気分で自らのシアワセのおかずにするためには、唄の中もライトな気分で不幸しなければならない。凍てつく外を歩く人が、全身凍傷だったり、倒れこんだりしてしまうと、民衆は助けの手を差し伸べる義務感に襲われる。山下達郎、匙加減の天才のあっぱれである。



ぶんせきは
KENTARO